「すごいね」ってたまに暴力的な時があると思うんだ。
私はそれで苦しかった過去があるから、ちょっと書いてみようと思う。
しっかり者のいい子ちゃん
私は典型的ないい子ちゃんタイプで育ってきた。
言われたことはちゃんとやるし、すごい頭がいい訳ではないけど成績も割と上の方。部活でも部長を務めたりとか。みんなから頼りにされたり褒められたりするのは嬉しかったから、それなりにこなしてきた。一人っ子だけど、小学4年生くらいから父が病気になったこともあって、「自分がしっかりしなきゃ!親に迷惑かけられない」って思いもどこかにあったんだろうなと思う。
父は私が高校になる時には元気になっていて、受験勉強の時とかにサンドイッチを作ってくれていたし、母は天然だけど芯の強い思いやりに溢れる人で尊敬しているし家族とは仲はいい。
まぁそんな感じで「いい子ちゃん」で育ってきたのだけども、割と昔から「すごいね〜」とか「えらいね〜」とか言われることが多かった。中学ぐらいまではそれで満足だった。何か認めてもらえている感じがして嬉しいし、それで頑張ってきた。だけど、高校ぐらいになった時「あれ?すごいって言われるけど本当に心から自分を見てくれている人っているんだろうか?」って不安になった。
「すごいね〜」
この声をかけてくれる人に悪気があるわけではないと思うけど、なんか自分とは違う世界の人みたいに一線を引かれてしまう感じがあった。私はこの人にとっては「すごい人」でなければいけないみたいな。
なんかそれがちょっと苦しくて、本当に心から受け止めてくれる人っているんだろうかって思ったりもしていた。
新潟の田舎でいい子ちゃんで育ってきた私は、「大学では絶対に東京にいくぞ!色んな価値観を知りたいんだ!」っていう典型的な田舎者の思考をして東京に出た。
いざ東京へ!
英語と社会問題には興味があったので、国際政治の学べる学科に進学し、世界を平和にするんだ!って意気込んでいた笑
今思うと単純だな〜とも思うけど、当時の自分は東京には出て来れたものの、第一志望のところではなかったので焦りもあった。大学の授業だけ受けているのじゃだめだ、有意義なものにしたい!と何かしら行動先を探していた。
当時大学の授業か何かで流れてきたイベントの案内を見て、え!東京にはイベントなんてものがあるのか!と衝撃を受け、国際協力系や社会貢献系のイベントにひたすら行きまくっていた。
やっぱり・・・
そうやって1年生からちょっと大学外部に行動を広げていたりとかすると、やっぱりこの言葉をかけられるようになった。
「すごいね〜!」
活動を応援してくれたり、見守ってくれていたりするからありがたい言葉だけど、やっぱりどこかちょっと寂しかった。すごい人、自分とは違う人っていうニュアンスが含まれている感じがして、なんか寂しかった。ん〜そんな特別なことしてるつもりはないんだけどなって思っていた。
「すごいね」「えらいね」
もちろん褒めて言ってくれているのは分かっている。
本当にあたたかく応援してくれる友達や、大人がいることも分かってる。だからありがたいんだけど、でも同じところに立ってくれる人はいない。
「いいね!それやってみようよ!」とか
「私もこんなことしたいんだ!」とか
一緒に横で歩いてくれる存在はいなかった。
想いに共感してくれて、その先を一緒に歩もうとしてくれる人はいなかった。
どんな存在でありたいか
だから私は、「すごいね」「えらいね」という言葉がきらい。
その一言によって、自分と相手は違うものと一線を引いてしまいたくはない。
いいね!どうやったら次楽しいことできるかな?
どんなことを一緒にできるかな?
そんな問いかけをできる存在でありたいと思っている。実際に、私がとある先輩との出会いで救われたように。
長々と読んでくれてありがとう。
私が「すごいね」の呪縛から救われた日のことは、次の記事で書こうと思う。
中村ひなた
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