この記事では、私が「すごいね」「えらいね」という言葉から開放された日のことを綴ろうと思う。背景には、とある人の存在があった。
私が「すごいね」という言葉に苦しんでいた日々のことはこちらから↓
心のあな
東京に出てきて半年、大学にきたからには人生無駄にしたくない!と思い、盲目に社会貢献系のイベントに参加していた。
相変わらずイベントやセミナーなどに参加していると「ひーちゃんいつもすごいね」とか「1年生からえらいね〜」とかっていう言葉をたくさんかけられてきた。
見守ってくれている人がいるのはとてもありがたいんだけど、やっぱり線引きをせずに自分と一緒に歩んでくれる人が欲しかった。
これは後から言語化されたことだから、当時は心の満たされなさというか、心のあなというか、そんなものを感じながら進んでいたと思う。
そうして、無我夢中で走り続けていた大学1年生の秋。
たまたまイベントを通して紹介していただいた先輩が私に居場所をくれた。
一緒に歩んでくれる存在
その先輩にお時間を頂いて、カフェでお話しすることがあった。
その時、私の価値観や何でこうしてイベントに参加しているか、将来やりたいことなどをストレートに話した。先輩は、すごく真摯な目で全てを受けとめてくれた。
「すごいね」や「えらいね」ではなくて、じゃあ、その想いをどうやって実現させていこうかねを一緒に考えてくれた。
これが本当に嬉しかった。
初めて自分の価値観や生き方が肯定されたような気がして、本当に本当に嬉しかった。
“自分とは違う人“というレッテルではなく、“次を一緒に歩んでくれる存在“だと感じられて、本当にありがたかった。
その後、私は先輩に導かれ、当時彼が作っていた学生団体に所属し、取材活動などを始めるのである。
心を見れる存在でありたい
そうして無事に居場所をもらった私は、取材活動を始めた。
活動を始めた当初に忘れられない出来事がある。初めて書いた記事をメディアにアップしてもらった日のことだ。私の記事を先輩がコメント付きでシェアしてくれた。
「こうして行動に起こして、純粋な気持ちで記事を書くことにものすごい価値があると思います。本気で国際協力とは何かを考え続けている、純粋な学生の優しい記事です。」
家についてスマホを開き、これを読んだ時、涙が溢れて止まらなかった。
ちゃんと見てくれている人がいる。
表面の行動ではなくて、心を見てくれる人がいる。
これが何よりも嬉しかった。
だから私は、どんな想いを持つ人であっても、肯定したいし、どうしたら一緒に叶えていけるかを考えられる存在でありたい。
肩書きや実績に「すごいね〜」と言うのではなく、心をちゃんと見れる人でありたい。
もし、このブログを読んでくれている人で今、同じような想いを抱えている人がいたらぜひ連絡して欲しい。
□周りに自分の価値観を語れる人がいない
□言ったら馬鹿にされるんじゃないか
□夢とか語ると一線引かれてしまう
こんな人。今の状況にちょっとでも苦しさを感じていたり、もどかしさを感じていたりする人がいれば力になりたい。私が先輩にたまたま変えてもらったように、何か力になれたら嬉しいなと思う。
こんなご時世なこともあって、オンラインで連絡も取りやすくなった。
出会えるチャンス、変われるチャンスはむしろ広がりやすくなっているのかもしれない。
「すごいね」で苦しんでいる人がいたら、ぜひ、連絡ください。
ひなた☀️
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